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ロシア連邦(ロシアれんぽう、Росси?йская Федера?ция、Rossiyskaya Federatsiya、英; Russian Federation)、別称ロシア(ロシア語:Росси?я [rossija])は、ヨーロッパとアジアにまたがる連邦制の共和国。ロシア連邦およびロシアは双方とも正式名称である[1]。首都はモスクワ。 北西から順にノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベラルーシ、リトアニア、ポーランド(ポーランドとの国境はバルト海とリトアニアに囲まれた飛び地領であるカリーニングラード州である)、ウクライナ、グルジア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中華人民共和国、モンゴル国、朝鮮民主主義人民共和国、日本、アメリカ合衆国、カナダと国境を接し、北は北極海、東は太平洋に囲まれており、領土の大きさでは世界最大である。 国名 正式名称は、Российская Федерация(Rossijskaja Federacija; ロスィーイスカヤ・フェデラーツィヤ、ラスィーイスカヤ・フィジラーツィヤ)。略称、РФ。通称、Россия(Rossija; ロスィーヤ、ラスィーヤ)。 キリル文字のラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここにあげたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。 日本語表記は、ロシア連邦。通称ロシア。以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露[2]。江戸時代にはをろしやとも呼ばれていた。19世紀の江戸時代から明治時代にかけては魯西亜という表記もなされ、1855年に両国間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。 ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという地域のギリシア語の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国が周辺の地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより正式の国名となった。 ロシア帝国期以前は、ルーシのギリシャ語風名称としてのロシアという語はかつてのルーシ全域を指し、ロシア北西部を「大ロシア」(大ルーシ)、西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」(小ルーシ、「ルーシの中心地」という意味)と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」(白ルーシ)という意味の地方名である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家として独立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金をすすんでモンゴルに収めたこと等)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの国土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への侵略と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。 地理 世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その大きさは日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万Ku(本州の約3倍程度)大きい)。国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大なタイガがその大部分を占めており、さらに高緯度になると、樹木の生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰のエルブルス山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。 国土を囲む海域には北極海の一部である沖縄旅行 レンタカーバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は37,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島(千島列島)がある。 特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。 ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川、大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川、カマ川、オカ川、アジア部のオビ川、エニセイ川、レナ川、サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河があげられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川、北上川や四万十川よりも川幅が広く、いずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。この他、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。 気候 冷帯の広がる地域 色分けは冷帯内部の区分であるロシアには基本的に大陸性の気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと、亜寒帯(冷帯) (D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって大陸性気候の特徴がはっきりしてくる。東シベリアには冬にシベリア高気圧が発達し、放射冷却のために気温が下がる。北半球でもっとも寒くなり、寒極と呼ばれる。例えば-71.2度(オイミャコン)、-66.7度(ベルホヤンスク)。しかしながら夏季には最高気温が30度を超える。 典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。 下図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適応したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。 ロシアを中心とした地域を沖縄 レンタカーケッペンの気候区分に従って塗り分けた地図 亜寒帯 Dfa 亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が22度以上の地域。地図では明るい空色で描かれている。黒海とカスピ海に挟まれた狭い地域に広がる。 Dfb 亜寒帯湿潤気候のうち、最暖月が10度以上22度未満であり、月平均気温10度以上の月が4カ月以上ある地域。地図では空色(シアン)で描かれている。ポーランドやハンガリーなどの中東欧諸国と共通の気候区分でもある。首都モスクワを含み、ロシア西部からモンゴル国境西端まで広く分布する。沿海州北部やサハリン北部にも見られる。モスクワの年平均気温は5.3度、1月の平均気温は-7.5度、7月は18.4度、年平均降水量は705.3mmである。 Dfc 亜寒帯湿潤気候のうち、以下の3条件を満たす地域、すなわち最暖月が10度以上22度未満、月平均気温10度以上の月が3カ月以下、最寒月が-38度以上-3度未満。地図ではDfbの北に広がる暗緑色で描かれている。北欧諸国と共通の気候区分であり、ロシア領土に占める面積ではもっとも広い。中央シベリア高原からカムチャツカ半島にかけて一部Dfdに移行している部分以外は、全国にまたがっている。植生はタイガ中心。 Dfd 亜寒帯湿潤気候のうち、3つの条件、すなわち最暖月が10度以上22度未満、月平均気温10度以上の月が3カ月以下、最寒月が-38度未満を満たす地域。中央シベリア高原から東に延びるさらに暗い緑色で描かれている(内部にDwcの領域を含む)。 Dwb 亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が10度以上22度未満、加えて月平均気温10度以上の月が4カ月以上ある地域。地図では青紫色で描かれている。モンゴル国境から北にかけて広がる。 Dwa 亜寒帯冬季少雨気候のうち、最暖月が22度以上ある地域。地図では薄紫色で描かれている。Dwbと隣接し沿海州に向かって広がる Dsb 高地地中海性気候のうち、最暖月が10度以上22度未満、加えて月平均気温10度以上の月が4カ月以上ある地域。地図では赤紫色で描かれている。カムチャッカ半島西岸などに見られる。 Dsd 高地地中海性気候のうち、3つの条件を満たす地域。すなわち、最暖月が10度以上22度未満、月平均気温10度以上の月が3カ月以下、最寒月が-38度未満。地図では薄赤紫色で描かれている。Dsbに隣接したごく狭い範囲に見られる。地球上でこの地点にのみ見られる気候区である。 その他の気候区 ET ツンドラ気候。地図では薄い灰色で描かれている。北極海沿岸全域に広がる。 沖縄 レンタカー BSk ステップ気候のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図では黄土色で描かれている。モンゴル西端から北に伸びるたごく狭い範囲に加え、カスピ海沿岸に見られる。 BWk 砂漠気候のうち、年平均気温が18度未満の地域。地図ではサーモン色で描かれている。BSkに隣接したごくわずかな範囲に見られる。 Cfa 温暖湿潤気候。黒海沿岸の狭い地域に見られる。 歴史 詳細はロシアの歴史を参照 ロマノフ朝以前 ロシアとウクライナ・ベラルーシの原型である中世のルーシ地域は、862年にノルマン人リューリクがノヴゴロドの公となり、その一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていく過程で形成されたと年代記に記録される。当初のルーシの中心は、現在はウクライナの首都であるキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境で、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。 数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア帝国へと発展してゆく。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られていた。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後は大貴族の抗争で国内が大混乱に陥り、ポーランドによるモスクワ占領まで起こった。 ロマノフ朝(帝政ロシア) 1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。18世紀、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703)、大北方戦争(1700?1721)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。エカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1792年)に勝利すると共に、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣され日露関係史が実質的に始まった。 19世紀になるとロシアはナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス軍に侵攻されたが、大損害を負いながらこれを撃退し、戦後はフィンランドやポーランド立憲王国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・民族主義運動は厳しく弾圧された。 19世紀後半からは不凍港獲得を悲願として南下政策を推し進めていき、これによってトルコ等周辺国と戦争を引き起こし、イギリスとの対立が激化していく。しかしクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は無政府主義者による皇帝暗殺まで発展した。この時期、極東ではアロー戦争の仲介料として沿海州を清から獲得しウラジオストクを建設した。 19世紀末には、北海道旅行ロシアはそれまでのドイツ・オーストリアとの三帝同盟からフランスとの露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加によりシベリア鉄道の建設が行われている。1905年に血の日曜日事件 (1905年)が発生し、日露戦争で敗れると、ロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。 ソビエト連邦 第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアと開戦したが、敗北を重ねて領土深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、ウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェヴィキ(共産党)を率いて内戦に勝利し、1922年にボリシェヴィキの一党独裁によるソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア共和国の首都はレニングラードと改称されたサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに戻された。ロシア共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア共和国とは異なる統治体制をとった。 ソビエト体制でのロシア共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソビエト連邦共産党内に「ロシア共産党」は創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシア(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。 1930年代に世界恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は農民からの強制的の収奪にもとづく閉鎖的な工業化であった。その歪が政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖にもとづく支配をもたらす結果となった。 第二次世界大戦では一時ドイツと同盟を結び、東欧に侵攻してポーランドを占領、フィンランドにも圧迫を加えたが、やがて同盟を破ったヒトラーに攻め込まれて西部の広大な地域をドイツに占領され、大きな被害を受けた。しかし最終的には大戦に勝利し、バルト三国を併合してソ連を構成する共和国に加え、更に、ポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。アジアでは、終戦直前の1945年8月に日本との不可侵条約を一方的に破棄して参戦、満州やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は上記の新領土内の非ロシア人の住民を追放して、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに割譲され、現在のロシア連邦にあたる領域になった。 日本は、サハリン州のうち千島列島南部の北方領土についての返還を要求。それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地となっている。  詳細は北方領土参照。 沖縄旅行戦後、ソ連は、強大なソ連軍の軍事力を背景に、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として勢力範囲に収めて、自国と同様の一党独裁を強要し、世界の二大超大国の一つとしてアメリカ合衆国と冷戦を繰り広げたが、計画経済の破綻等から次第に共産主義の矛盾を露呈した。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ペレストロイカ、グラスノスチを掲げてソ連を延命させるため改革に取り組むが、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。 ソ連の崩壊 党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、自らを大統領とした。1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、同年12月26日にソ連が崩壊。以後、アメリカによる一極支配が増長する切っ掛けとなった。 ロシアは旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(CIS/СНГ)加盟国のひとつとなった。ロシアは旧ソ連が有していた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持し続けている。 国名は1992年5月、ロシア連邦条約により、国名が現在のロシア連邦(ロシア)と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、ゴルバチョフ・ソ連大統領辞任の当日である1991年12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。 1999年12月8日には、当時のエリツィン大統領と、ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領との間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したプーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は、事実上、停滞状態となっている。 国際地位の向上 2000年に大統領となったプーチンは、国内の安定と政府権力の強化を目指し、ロシア経済を半ば私物化していた新興財閥「オリガルヒ」の解体に乗り出し、石油・ガス会社ガスプロムの国有化をはじめ、親欧米・反政府的なオリガルヒはプーチン時代を通してほぼ一掃された。また、政権初期に頻発したテロの報復としてチェチェンへの軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締め付けも図った。報道管制も強化し、反政府的な報道機関は露骨な圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中華人民共和国との関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西欧政権ができると、ガス供給停止措置を採ることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。また、就任当初は蜜月と言われた米国との関係も、イラク戦争・イラン核疑惑といった諸問題を扱う中で悪化、米国による東欧のミサイル防衛構想によって冷却化しているが、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも強圧的で批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させている。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復した事も寄与している。2007年には2014年の冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。 2008年に側近のドミトリー・メドベージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として就任。プーチン政権時の政策は今後も続けられると思われる。同年、メドベージェフ大統領の下で南オセチア問題を原因としてグルジア侵攻を行なった。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる。冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている。 政治 ロシア連邦政府の組織に関する詳細はロシア連邦政府を参照 国制は連邦制を取るが、沖縄旅行国家元首である大統領(任期4年)が行政の中心として強い指導力を発揮する。大統領は、首相(議会の信任を要する)を含む政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意を得ないで政令(大統領令)を発布する権限を持ち、軍隊と国家安全保障会議の長を兼ねる。 近年豊富な原油や天然ガスをなどエネルギー資源をてこに、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。 ソ連崩壊後の弱体ぶりから比べると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシアとの協議無しに東ヨーロッパへのミサイル防衛基地の展開を進めているアメリカや、NATOとの緊張状態は高まりつつある。(新冷戦) ロシア連邦議会(Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii )は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表ひとりずつからなり上院に相当する連邦院(連邦会議、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院(国家会議、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は、任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を得るためのハードルがあげられ、プーチン政権、シロヴィキおよび与党統一ロシアに有利な選挙戦が展開された。 中央政界で活動する主要な政党については、ロシアの政党を参照のこと。 加盟している国際機関 国際連合 欧州安全保障協力機構 欧州・大西洋パートナーシップ理事会 欧州評議会 独立国家共同体 集団安全保障条約 地方行政区分 ロシアの連邦構成主体区分図(黄緑色が共和国)詳細はロシア連邦の地方区分を参照 ロシアは、北海道旅行85の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。 ウラジーミル・プーチン政権は、中央政府の各連邦構成主体への影響力拡大を図り、2000年5月13日に全土を7つに分けた連邦管区を設置した。 中央連邦管区(本部モスクワ) 北西連邦管区(本部サンクトペテルブルク) 南部連邦管区(本部ロストフ・ナ・ドヌ) 沿ヴォルガ連邦管区(本部ニジニ・ノヴゴロド) ウラル連邦管区(本部エカテリンブルク) シベリア連邦管区(本部クラスノヤルスク) 極東連邦管区(本部ハバロフスク) 名称 人口(人) 州都/主府/本部 備考 中央連邦管区 Центральный федеральный округ 37,142,300 モスクワ Москва 北西連邦管区 Северо-Западный федеральный округ 14,282,900 サンクトペテルブルク Санкт-Петербург 南部連邦管区 Южный федеральный округ 21,471,300 ロストフ・ナ・ドヌ Ростов-на-Дону 沿ヴォルガ連邦管区 Приволжский федеральный округ 32,017,800 ニジニ・ノヴゴロド Нижний Новгород ウラル連邦管区 Уральский федеральный округ 12,603,200 エカテリンブルク Екатеринбург シベリア連邦管区 Сибирский федеральный округ 20,792,500 ノヴォシビルスク Новосибирск 極東連邦管区 Дальневосточный федеральный округ 7,169,400 ハバロフスク Хабаровск さらに、ダイビング2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名し地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。 主要都市 ロシアには人口100万人を超える都市が13(以下、2002年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1012万6000人)。続くサンクトペテルブルク(466万人)の2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体として他の州や共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパ・ロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。 都市 行政区分 人口 都市 行政区分 人口 モスクワ サンクトペテルブルク 1 モスクワ モスクワ 10,126,424 11 ウファ バシコルトスタン共和国 1,042,437 2 サンクトペテルブルク サンクトペテルブルク 4,661,219 12 ヴォルゴグラード ヴォルゴグラード州 1,011,417 3 ノヴォシビルスク ノヴォシビルスク州 1,425,508 13 ペルミ ペルミ地方 1,001,653 4 ニジニ・ノヴゴロド ニジニ・ノヴゴロド州 1,311,252 14 クラスノヤルスク クラスノヤルスク地方 909,341 5 エカテリンブルク スヴェルドロフスク州 1,293,537 15 サラトフ サラトフ州 873,055 6 サマーラ サマラ州 1,157,880 16 ヴォロネジ ヴォロネジ州 848,752 7 オムスク オムスク州 1,134,016 17 トリヤッチ サマラ州 702,879 8 カザン タタールスタン共和国 1,105,289 18 クラスノダール クラスノダール地方 646,175 9 チェリャビンスク チェリャビンスク州 1,077,174 19 ウリヤノフスク ウリヤノフスク州 635,947 10 ロストフ・ナ・ドヌ ロストフ州 1,068,267 20 イジェフスク ウドムルト共和国 632,140 2002年国勢調査 軍事 詳細はロシア連邦軍を参照 経済 ソビエト連邦解体後、夜行バスボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このためにかえって急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア経済危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。 しかし、ロシアはサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油生産国であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた石油産業を中心とする成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者(オリガルヒ、新ロシア人、ニュー・リッチに代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン人によるテロのリスクなど、不安定要因もいくつかは見られるが、2000年にはGDP成長率が10%を越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いており、一人当たり名目GDPも、1999年には1334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6879ドルと5倍強の増加を見せた。ロシアはまた、ブラジル・中国・インドと共に「BRICs」と呼ばれる新興経済国群の1つに挙げられている。 鉱業 ロシアは最も鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は「鉱業便覧 平成14年版 経済産業調査会」による2002年時点のものである)。 有機鉱物資源では、天然ガス(21807千兆ジュール、21.9%、2位)、原油(3.5億トン、10.3%、2位)、燃料に用いられる亜炭(8668万トン、9.5%、4位)、石炭(1.6億トン、シェア4.4%、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビア、アメリカ合衆国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。 これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と高速バス (88%) と天然ガス (69%) である。一方、原油の国内消費比率は29%と低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6211万トン、2001年)である。 貿易 ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年に至ると、国民総生産4885億ドルに対し、輸出は1260億ドル、輸入524億ドルに増加している。輸出の伸びが著しい。これは原油及び、石油関連の生産・輸出拡大によるものだ。ロシアの貿易構造は1992年から2003年に到る10年間で大きく変化してきた。1992年時点では旧ソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油、石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。 1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械 (35.0%)、原油(天然ガスを含む、14.7%)、化学品 (10.6%)、軽工業品 (8.1%)、鉄鋼 (6.9%)。同輸入品は、建築機械 (36.2%)、軽工業品 (20.4%)、食料 (16.7%)、化学品 (7.5%)、鉄鋼 (5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、石油ガス (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、アルミニウム (2.6%)である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、オランダ (6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ (14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。 日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で50%弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、白金が次いだ。これが2003年になるとアルミニウム(アルミニウム合金を含む、22.4%)、魚介類、石炭、木材、原油となった。輸入は、機械類 (26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、プラスチックであったものが、乗用車 (62.1%)、建設機械 (6.4%)、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。 国民 国民の80%以上は東スラブ系民族のロシア人(民族名)である。ロシア人以外の主要な民族には、ウクライナ人、チェチェン人、イングーシ人、オセット人、カルムィク人、タタール人、バシキール人、チュヴァシ人、トゥヴァ人、サハ人、エヴェンキ人、タイミル人、マリ人、モルドヴィン人、カレリア人、イヌイット、ドイツ人、ユダヤ人、高麗人など、100を越える多くの非スラブ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。 極東を中心に漢民族の移住が増えており、沿海地方では将来的には人口でロシア人(民族)を上回るといわれている。 ロシア人を含めた多くの民族がロシア正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。 20世紀のロシアの人口動態は、第一次大戦・干渉戦争期そして第二次世界大戦期と二度にわたって激減したが、その後は回復。しかし1992年以降人口ふたたび減少が続いている[3]。原因には、出生率が著しく低下していること、男性の平均寿命が極めて短くなっていることがある。現在のロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、58歳11ヶ月16日となっている。対照的に、女性は72歳4ヶ月4日であり、男女格差が極めて大きい。 文化 ロシア文学 バレエ ロシア国民楽派 - ロシア5人組 ロシア料理 ロシア建築 スポーツ 詳細はロシアの夜行バス スポーツを参照 ロシアは、1980年のモスクワオリンピックを始め、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。2014年には黒海沿岸のソチで冬季オリンピック(ソチオリンピック)を開催することが決定している。国内リーグにはロシアサッカー・プレミアリーグ、アイスホッケーのコンチネンタルホッケーリーグなどがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、新体操やフィギュアスケートなどの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア発祥のスポーツとしてはサンボが挙げられる。 世界遺産 詳細はロシアの世界遺産を参照 ロシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が7件ある。さらにモンゴルとにまたがって1件の自然遺産が、リトアニアとにまたがって1件の文化遺産が、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニアにまたがって1件の文化遺産が登録されている。 祝祭日 クリスマスが1月7日なのは、キリスト教の宗教行事はロシア正教が公認している高速バス ユリウス暦に基づいて行われていることによる。現在の暦であるグレゴリオ暦は歴史的にはカトリック側が作った暦であるためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)1月7日がユリウス暦の12月25日に相当する。2100年2月28日まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様である。ソ連時代は1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立した11月7日が革命記念日として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた11月4日を「国民団結の日」として復活させた。 祝祭日 日付 日本語表記 現地語表記 備考 1月7日 クリスマス Рождество Христово 正教会のクリスマス 1月14日 旧正月 Старый Новый год ユリウス暦の1月1日に相当(2100年まで) 2月23日 祖国英雄の日 День защитника Отечества 3月8日 国際女性デー Международный женский день 5月1日 春と労働の日 Праздник весны и труда 旧メーデー 5月9日 対ドイツ戦勝記念日 День Победы 1945年にナチス・ドイツがソビエト連邦などの連合国に対して無条件降伏した日 6月12日 ロシア主権宣言の日 День России 1991年にロシア共和国がソビエト連邦から主権宣言した日 11月4日 国民団結の日 День народного единства 1612年にロシア・ポーランド戦争でポーランド軍からロシア国民軍がモスクワを解放した日 12月12日 憲法記念日 День Конституции Российской Федерации 現在のロシア憲法が公布された日 12月31日 年末の休日